憲法や民法を受けて、婚姻の手続は戸籍法が定めています。戸籍法は、明示的に同性婚を禁じているわけではありませんが、婚姻をしたカップルを「夫婦」、その当事者を「夫」「妻」と呼称していることなどから、戸籍実務では、同性婚の届出を受け付けないことになっています。
そこで、婚姻届を拒否された同性カップルが、同性間の婚姻を認める規定を設けていない現行民法及び戸籍法の諸規定(以下、本件(諸)規定)が憲法に違反し、国がそれを是正する立法措置を講じていないことを違法として国家賠償請求を提起したのが、いわゆる同性婚訴訟です。原告が求めていたのは「婚姻」を認めることであって、原告はそれに類似する制度(例えば国レベルの登録パートナーシップ制度)では不十分である(同性婚を認めなければ二級市民として扱われることになる)としていることに注意が必要です。
これまで、札幌、大阪、東京の各地裁で判決が出され、2023年5月30日には名古屋地裁の判決も出されました。いずれも大きなニュースになっています。残るは福岡地裁で、判決は2023年6月8日に出される予定とのことです。
名古屋地裁の判決も出され、理論構成や憲法判断はともかくとして、地裁レベルでの考え方は概ね判明したように思います。しかし、札幌や名古屋の判決については、「同性婚不受理認めずは違憲」などと誤解を招く見出しのニュースも多く見られます(後述のように、札幌や名古屋の判決は、同性婚を認めないことを違憲としたわけではないと解されます)。
そこで、これまでの地裁の考え方を整理したいと思います。関心を持っている方向けのブログなので、詳しめになっています。
ここでは、【憲法は同性婚を予定しているか】【同性婚を認めないことは異性カップルと同性カップルを区別して取り扱うことになるか】【婚姻制度の目的】【婚姻制度の法的効果や公的な承認を得る利益について】【性的指向・性自認の理解】について整理します。実は、各地裁は実質的には同じような判断をしています。
なお、問題となった憲法の条項は、13条(幸福追求権)、14条1項(平等原則、平等権)、24条です。13条は東京と名古屋では主張されておらず、比較的重要ではないので、以下では言及しません。
憲法24条は、以下の規定となっています。
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【憲法は同性婚を予定しているか】
憲法24条1項は、「両性」「夫婦」という文言を用いていること、制定過程において同性婚は想定されていなかったことから、同条項の「婚姻」は異性間のものを指し、同性間のものは含まない。
したがって、憲法24条1項は同性婚を要請していない。
他方、制定時の議論をみても、同条項は、明治民法の下での家制度に付随する戸主の権限を廃止し、当事者双方の合意のみに基づく婚姻を可能とすることに主眼があったことが認められ、同性間の婚姻を積極的に排除、禁止しようとしたものとはうかがわれない。したがって、憲法上、同性婚の制度を設けることは許容される(※1)。
※1 インターネット記事のコメントでは、24条1項が同性婚を想定していないのであれば、同性婚を禁じているということであり、同性婚を認めるなら憲法改正をすべきである旨のコメントが多く見られます。しかし、想定していない=禁止しているではありませんし、被告である国も同性婚が禁じられているとまで主張していません。憲法学でも許容説が通説で、禁止説は超少数説です。同性婚訴訟はいずれ最高裁に上告されるはずですが、最高裁も同性婚が禁じられているという判示はしないでしょう。
他方で、婚姻とは性愛に基づくカップルの公証であり、同性愛者同士のものも含まれるとのイメージ(社会通念)が社会に定着していると解されれば、同性婚を認めないことが違憲とされるでしょう。この場合には憲法24条の「婚姻」に同性婚を含むとの解釈に変更されるかもしれませんが、それは婚姻イメージの変更によるものです。形式的には憲法24条の解釈が変更されて違憲となりますが、実質的には婚姻イメージが変更されて同性婚を認めない状態が違憲と考えられるに至れば、24条の解釈が変更されるのだと思います。なお、大阪、東京、福岡地裁の判決は、同性婚が「社会的承認」を得られていないために24条1項により保障されているとはいえないとしています。ただし、上記のイメージと社会的承認はイコールではなく、後者の方が現実の多数者の意思に近い意味合いがありそうです。
もっとも、婚姻のイメージや社会通念といっても、①既に同性婚を認めてよいと考える国民が相当数いる以上、既に同性婚も婚姻イメージに含まれている、とも考えられるし、②少数者に対する差別や人権(重要な人格的利益)が問題となっている以上、イメージや社会通念を、偏見を含んだ現実の多数者の考えと同視すべきではなく、個人の尊厳を基礎として、理性的に、あるいは良識に従って考えるべき、との批判があり得るでしょう。
【同性婚を認めないことは異性カップルと同性カップルを区別して取り扱うことになるか】
国は、同性愛者であっても、異性と婚姻することは可能であるし、本件規定は性的指向それ自体に着目した区別を設けるためのものではなく、異性カップルが婚姻できないのは本規定の適用の結果生じる事実上または間接的な結果に過ぎないから、性的指向による区別取扱いはないと主張する。
しかし、同性愛者にとって異性との婚姻はその本質(自分の望む相手と永続的に人的結合関係を結び共同生活を営むこと)を伴うものとはならない。本件規定は、婚姻を異性間のものに限ることによって、実質的には同性愛者の婚姻を不可能とする結果を生じさせており、性的指向によって異性愛者と同性愛者を区別して取り扱うものといえる。
したがって、憲法14条1項違反の問題が生じる。つまり、婚姻を異性カップルには認め同性カップルには認めないという区別(別異取扱い)に合理的根拠が認められなければ、この区別は不合理な差別的取扱いとして14条1項に違反する(多くの場合、区別は価値中立的で、その区別が不合理な場合を差別といっています)。
【婚姻制度の目的】
婚姻制度の目的として、次のAだけでなく、Bも認められる(どちらを重視すべきかについて、各地裁でニュアンスは異なります。札幌地裁は明らかにBを重視しています。以下は大阪地裁の表現です)。
- (婚姻を、男女が生涯続く安定した関係の元で、子を産み育てながら家族として共同生活を送り次世代に承継していく関係として捉え、このような)男女が共同生活を営み子を養育するという関係に、社会の自然かつ基礎的な集団単位としての識別、公示の機能を持たせ、法的保護を与えるという点(伝統的な婚姻観・家族観といえます)
- 永続的かつ真摯な精神的・肉体的結合関係について、相続や財産分与等の経済的利益を与えるほか、公的承認を与え公証することにより、社会の中でカップルとして公に認知されて共同生活を営むことを可能にさせるという点(※2)
Bは、国民の意識調査からも認められる。特に公的な承認を得る利益は、自己肯定感や幸福感の源泉と人格的尊厳に関わる重要な人格的利益といえ、それは同性カップルにも認められる(Bを認めることはAを否定するわけではない)。Bは、憲法上保障された権利とまではいえないが、憲法上尊重すべき利益である。
ただし、婚姻の目的に子孫の生殖という面があることは否定できず、現在でもそれに婚姻の意義を見出す国民も少なくない。
※2 大阪地裁は「公認に係る利益」といっています。原告とすれば、Aを軽視し、Bを重視することになります。
名古屋地裁判決が指摘するように、「同性カップルが国の制度によって公証されたとしても、国民が被る具体的な不利益は想定し難い」と思われます。そのため、同性婚を認めたとしても、「幸せになる人が増えるだけ」とも言えます。同性婚に反対する立場の根拠は、同性婚を認めることにより具体的な弊害が生じるということではなく、同性婚を認めることがAの伝統的な婚姻観・家族観に反するという点にあるのでしょう(その背景には同性愛者に対する嫌悪感・差別感情があるとの指摘もあります)。
しかし、子を設ける意思や能力がなくても、Bに婚姻の意義を見出して婚姻する人たちもいます。子を設けるかどうかは当人の自由(自己決定権)であり、他人が口出しをするものではないとも考えられているでしょう。同性婚を認めるべきでないとする人々も、Bを目的とする婚姻がAにそぐわないから婚姻を認めるべきでない、あるいは婚姻を認めるとしてもそれは本物の婚姻ではない(正統でない・二級の婚姻である)、とは考えていないでしょう。法律上も、子を設ける意思や能力があることが婚姻の要件とされているわけではありません。そうすると、婚姻の主目的はAではなくBと解すべきようにも思われてきます。明治民法においてもAが主目的とは考えられておらず、憲法改正に伴う民法改正の際もそれを改める議論はされていないようです(札幌地裁判決が指摘しています)。これに対しては、男女である限りは抽象的には生殖可能性があるとか、子を設ける意思や能力の有無の線引きは困難といった理由で、男女である限りは婚姻を認めざるを得ないが、同性婚はそうではない、という反論があるでしょう。しかし、上述のように、子を設ける意思や能力のない婚姻は、「本来は認めるべきではないが認めざるを得ないもの」ではないでしょう。しかも、現在では、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」により戸籍上の性別が変更された人が婚姻することは認められています。現在の法制度では、子を設けられないことが明らかなカップルであっても、Bを求めて婚姻することが認められているのです。それにもかかわらず、なぜ同性カップルがBを求めて婚姻することを否定する必要があるのか、その根底には同性カップルに対する嫌悪感・差別感情がないか、が問われるでしょう。
【婚姻の法的効果や公的な承認を得る利益について】
婚姻とは、婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し、戸籍によってその身分関係が公証され、その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという、身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為である(上記AないしBを目的とする)。
契約や遺言によって婚姻と同様の効果を一定程度享受することはできるが、契約や遺言が必要という制約はあるし、税法上の優遇措置、在留資格、公営住宅の入居資格等、契約等によっても取得困難な法的地位も多く存在する。
国レベルでは、公的な承認を得る利益も享受できていない。
同性カップルは、異性カップルと異なり、婚姻の法的効果を全く享受できていない(目的Bを実現できていない)。
ただし、諸外国の例からしても、同性愛者が婚姻の法的効果を享受できる制度として婚姻とは異なる制度(婚姻類似制度)を設けることもあり得るし、同性婚を認めるにしても、まず婚姻類似制度から始めることも考えられる。制度の内容をどうするかについては様々な考え方があり得、同性婚が唯一のあるべき制度ではない。どのような制度を設けるかは、国の伝統、国民感情、子の福祉等を考慮し、まずは国会において議論すべき事柄である(したがって、同性婚を認めないことが違憲とは言えない)。
【性的指向・性自認の理解】
性的指向・性自認は、人生の初期または出生前に決定され、自らの意思で選択・変更できるものではない。
なお、このような理解が正しければ、同性婚が法制化されたとしても異性愛者が同性愛者に変化するわけではないので、同性婚を認めると同性愛者が増え少子化に繋がる、との議論には裏付けがないということになるでしょう。
【地裁判決】
以上の認識を前提として、各判決は、次のように判示しています。
各判決を読む上で、注意すべき点があります。それは、各判決は、①本件規定が同性婚を認めていないことの合憲性だけでなく、②登録パートナーシップ制度のような婚姻類似制度も設けられていないために同性カップルが婚姻の法的効果を全く享受できていないことの合憲性を論じており、①と②をはっきりと区別すべきである、という点です。①と②をはっきりと区別できていないことが、ミスリーディングな報道がされる原因だと思います。結論から述べると、①については全ての裁判所が合憲としており、判断が分かれたのは②です。②について違憲としたのを、①を違憲としたと誤って報道されているのです。
【札幌地裁(2021.3.17)】
憲法24条1項は異性婚を想定しており、2項はこれを前提とするから、同性婚を設けないことが24条2項に違反すると解することはできない。
婚姻とは、婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し、戸籍によってその身分関係が公証され、その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという、身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為である。これらの婚姻によって生じる法的効果を享受することは重要な法的利益であり、同性愛者だけでなく異性愛者も享有し得る。
我が国には、同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずおり、また、明治民法以来、婚姻とは社会の風俗や社会通念によって定義されてきたものであって、婚姻及び家族に関する事項は、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ、それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものであることからすれば、立法府が、同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で上記のような事情を考慮し、本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば、そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。
しかし、本件規定が、異性愛者に対しては婚姻という制度を利用する機会を提供しているにもかかわらず、同性愛者に対しては、婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていることは、立法府が広範な立法裁量を有することを前提としても、その裁量権の範囲を超えたものであるといわざるを得ず、本件区別取扱いは、その限度で合理的根拠を欠く差別取扱いに当たる。
本件規定は、同性愛者に対して、婚姻によって生じる法的効果の一部ですらも享受する法的手段を提供していない限度で、14条1項に違反する(※3)。
上記の限度で本件規定は14条1項に違反する状態に至っていたが、これを改廃していないことが国賠法上違法とまでは評価できない。
札幌地裁の違憲判決は、「同性婚を認めないことを違憲とした!」として大きなニュースになりました。しかし、これは誤解といって良いと思います。
札幌地裁は、同性カップルを保護するための方法は様々でまずは国会で審議すべき(立法裁量)との認識を前提として「立法府が・・・・・・本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば、そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。」としており、同性婚を認めないことが違憲であるとは考えていません(というのが素直な理解だと思います)。判示によると、同性カップルが婚姻の効果を全く享受できていないことが憲法上問題なのであって、婚姻とは異なる制度を設けて婚姻による法的効果の一部を認めることによっても、効果次第では14条1項違反の問題をクリアーし得ることになります。したがって、本判決が、原告にとって大きな前進となったことに違いはないでしょうが、同性婚を求める原告の主張を認めたわけではありません(研究者の多くもこのような理解だと思います)。
※3 公的な承認を得る利益への言及は他の地裁判決より薄いように読めますが、他の地裁判決と比較すると、「子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく,夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていた」として、前者の目的より後者の目的を重視しています。また、性的指向や性自認が自己の意思によっては決定できないことを明示した点、同性婚を認めないことが違憲か否かだけではなく、同性カップルに婚姻の効果が全く認められていないことを違憲とした点で、先駆的な意義があります。
【大阪地裁(2022.6.20)】
公認に係る利益は自己肯定感や幸福感の源泉と人格的尊厳に関わる重要な人格的利益であり、同性カップルにも実現する必要がある(※4)。
※4 大阪地裁のこの部分の判示は、極めて重要だと思います。
しかし、これは憲法上直接保障された権利とまでは言えない。同性カップルの当該利益を実現する方法には様々な方法が考えられ、そのうちどのような制度が適切であるかについては、現行法上の婚姻制度のみならず、婚姻類似の制度も含め、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因や、各時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた上で民主的過程において決められるべきものである。こうした状況で、公認に係る利益の実現のためにどのような制度が適切であるかの議論も尽くされていない現段階で、同性婚を認めないことが個人の尊厳の要請に照らして合理性を欠くと認めることはできず、憲法24条2項に違反しない。今後の社会情勢の変化によっては、同性間の婚姻や婚姻類似制度等の導入について何ら法的措置がとられていないことの立法不作為が、将来的に憲法24条2項に違反するものとして違憲になる可能性はあるとしても、本件規定自体が同項で定められた立法裁量の範囲を逸脱しているとはいえない。
憲法上、同性間の婚姻が異性間の婚姻と同程度に保障されているわけではないこと、同性間の人的結合関係については、民法上の制度(契約や遺言等)や自治体の登録パートナーシップ制度、国民の理解が進んでいることなどを考えると、同性婚を認めないことは憲法14条1項にも違反しない。
【東京地裁(2022.11.30)】
夫婦となった男女が子を産み育て、家族として共同生活を送りながら、次の世代につないでいくという古くからの人間の営みを背景として、憲法24条1項が異性間の婚姻の立法化を定めていることからすると、異性婚のみ定め、同性婚を定めないことは憲法14条1項に違反しない。
異性愛者と同様、同性愛者にとっても、パートナーと家族になり、共同生活を送ることについて家族としての法的保護を受け、社会的公証を受けることができる利益は、個人の尊厳に関わる重大な人格的利益に当たる。
憲法24条2項は、「婚姻」だけでなく「家族」に関する事項についても個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定すべき旨を示しているから、上記人格的利益が認められない状況が同条項に適合するかが問題となる。
現行法上、同性愛者についてパートナーと家族になるための法制度が存在しないことは、同性愛者の人格的生存に対する重大な脅威、障害であり、個人の尊厳に照らして合理的な理由があるとはいえず、憲法24条2項に違反する状態にある(※5)。
現行法上、同性愛者についてパートナーと家族になるための法制度を構築する方法は同性間の婚姻を現行の婚姻制度に含める旨の立法を行うこと以外にも存在するのであるから、上記の状態にあることから原告らが主張する同性間の婚姻を可能とする立法措置を講ずべき義務が直ちに生ずるものとは認められない。
※5 本件規定ではなく「法制度が存在しないこと」が違憲状態であるとしているので、立法不作為の問題としています。後述のように、同性カップルを全く保護しないという問題は、東京地裁のように立法不作為の問題と捉えるのが素直だと思います。札幌地裁や名古屋地裁のように、本件規定を一部違憲とするのはやや無理があるし、実際に誤解されているように、一般の方にはわかりづらいと思います。
しかし、そのような法制度を構築する方法については多様なものが想定され、それは立法裁量に委ねられているから、同性婚を認めないことが同項に違反すると断ずることはできない。
したがって、国会が同性間の婚姻を可能とする立法措置を講じないことが国賠法上違法の評価を受けるとはいえない。
【名古屋地裁(2023.5.30)】
人間が社会的な存在であり、その人格的生存に社会的な承認が不可欠であることを踏まえれば、婚姻の多彩な効果のうち、とりわけ重要なのは、両当事者が安定して永続的な共同生活を営むために、両当事者の関係が正当なものとして社会的に承認されることが欠かせないということである。
同性カップルが国の制度によって公証されたとしても、国民が被る具体的な不利益は想定し難い。現に、地方自治体においては、登録パートナーシップ制度の導入が増加の一途を辿っているが、これにより弊害が生じたという証拠はなく、伝統的な家族観を重視する国民との間でも、共存する道を探ることはできるはずである。
憲法24条2項は、婚姻のほか、「家族」についても、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した立法の制定を要請している。
婚姻による利益を一切享受できない不利益は重大であり(契約や遺言などの民法上の制度や自治体の登録パートナーシップ制度によっては不利益は解消されない)、性的指向及び性自認は、人生の初期又は出生前に決定され、自らの意思や精神医学的な療法によって変更されるものではないことをも勘案すると、本件規定は、同性カップルに対して、その関係を国の制度によって公証し、その関係を保護するのにふさわしい効果を付与するための枠組すら与えていない限度で、憲法14条1項及び24条2項に違反する。
本件規定は上記の限度で憲法14条1項及び24条2項に違反するが、婚姻及び家族に関する事項については、その具体的な制度の構築が第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねられる事柄であるところ、男女の結合関係を中核としてその間に生まれた子の保護・育成の機能を担うという伝統的な家族観が存在し、このような家族観は、今日においても失われてはおらず、同性婚の是非に関し、令和2年時点での意識調査においても、一定数の反対派が存在したこと等からすると、本件規定を改廃しなかったことを国賠法上違法と評価できない。
これも「同性婚を認めないことを違憲とした!」と大きなニュースになっています。
しかし、判決は、婚姻と自然生殖が完全に切り離されたと見ることは困難とし、伝統的な家族観を重視する国民の存在や諸外国の制度も指摘した上、「自然生殖の可能性が存しない同性カップルに対して、いかなる保護を付与し、制度を構築するのが相当かについては、現行の法律婚制度をそのまま開放するのが唯一の方法とは限らず、当該制度とは別に、特別の規律を設けることによることも、立法政策としてはありうるところである」としています。判示するところの「同性カップルの関係を国の制度によって公証し、その関係を保護するのにふさわしい効果を付与するための枠組み」は同性婚に限定されていないと思われます。したがって、札幌地裁と同様、同性婚を認めないことを違憲としたわけではないと解されます。
ただし、国による統一された戸籍制度によって公証されることが、カップルが正当な関係として社会的承認を得たといえるための有力な手段になっていることを重視し、同性カップルが国の制度によって公証されたとしても国民が被る具体的な不利益は想定し難いことを指摘していること等からすると、現行の婚姻制度にかなり近いものを要求しているようにも読めます(札幌地裁もそのような趣旨なのでしょう)。
【分析】
【地裁レベルのコンセンサス】
札幌と名古屋の判決が同性婚を認めないことを違憲としたというのは誤解だというのは上記のとおりです。
さらに、報道機関の記事では、地裁の判断が割れているように見えることから、「『婚姻』や『家族』のあり方について司法判断も錯綜しているといえそうだ。」とするものもあります。
しかし、ニュアンスは異なるとしても、以下の理解については地裁レベルでコンセンサスが形成されつつあるように見受けられます。
- 憲法24条1項は異性婚を想定しており、同性婚を要請していないこと(ただし、法律で同性婚を認めることは違憲でないこと)
- 婚姻には、①夫婦とその子から構成される社会の基礎的な単位である家族の保護以外に、②性愛に基づくカップルに対して法的な効果(公的な承認含む)を付与するという面があるが、この法的な効果(特に公的な承認)と事実上の利益を享受する利益は重要な人格的利益であり、憲法上尊重すべきこと
- 性的指向・性自認は当人の意思で選択・変更できるものではないこと
- 2の人格的利益を実現する方法は多様であり(同性婚に限らない)、まずは国会で審議すべきこと、したがって、同性婚を認めないことが違憲とまでは言えないこと
つまり、婚姻や家族のあり方についての判断が分かれたわけでもないし(婚姻には子の生殖の目的があるが、同性カップルの人格的利益も重要)、同性婚を認めないことが違憲かどうかについて判断が分かれたわけでもない(同性婚か他の制度かは立法裁量)、ということです。
【判決の分かれ目】
(以下、詳しく理解したい方向けの考察ですが、私見に過ぎません)
各地裁の判断が分かれた様に見えるのは、以下の2点の理解が難しいためかもしれません。
- 各判決は、①本件規定が同性婚を認めていないことの合憲性だけでなく、②婚姻だけでなく婚姻に類似する制度(以下、まとめて「婚姻等の制度」)すら設けられていないために同性カップルが婚姻の法的効果を全く享受できていないことの合憲性を論じていること
- ②について、違憲判断の方法が、立法不作為の問題とするか(東京)、本件規定(の一部)を違憲とするか(札幌・名古屋)で分かれていること
つまり、いずれの地裁も、①同性婚が認められていないこと自体は違憲ではないと判断する一方で、②婚姻等の制度が全く設けられておらず、同性カップルが婚姻の法的効果を全く享受できていない状況は問題であると考えています。しかし、大阪地裁は②も合憲とし、札幌、東京、名古屋は違憲としたのですが、その中でも違憲判断の方法が分かれているのです。
【大阪地裁とそれ以外】
大阪地裁は、上記②の状況の問題を立法不作為の問題とし、これについて将来的には違憲の可能性があるとするにとどめました。②の状況については合憲(状態)とするのでしょうが、そのように明示しているわけでもありません。
それ以外の地裁は、上記状況を違憲としました。
このように、実質的な判断としては、婚姻等の制度が設けられていない状況を合憲とするか違憲とするかについて、大阪地裁とそれ以外で分かれたように見えます。
しかし、上記のとおり、大阪地裁も、この状況を問題視し、明確に合憲であると述べているわけでもなく、将来的には立法不作為が違憲になる可能性もあるとしているので、大阪地裁判決とそれ以外の地裁判決の違いは見かけほどは大きくないのかもしれません(※6)。
※6 小林直三教授は「政治部門への警鐘の鳴らし方(警鐘の大きさ)の違いに過ぎないと考えられる」と指摘しています。
【札幌・名古屋地裁と東京地裁】
札幌・名古屋地裁と東京地裁は、違憲判断の方法が異なります。
札幌と名古屋は、上記状況の限度で本件規定を違憲としました。本件規定の全部ではなく、一部を違憲としたのです。原告が本件規定の違憲性を主張しているので、それに対応したのかもしれません。
法令の全部ではなく一部(一定限度)を違憲とすることを、憲法学で「一部違憲」と呼んでいます。裁判官を非難するわけでは全くない(むしろ大変な労力をかけて判決を書かれたことに敬意を表したい)のですが、札幌地裁と名古屋地裁の判決が、同性婚を認めないことを違憲としたと誤解されたのは、その一部違憲という手法がわかりづらかった点もあると思います。つまり、①同性婚を認めないことと②同性カップルが婚姻の法的効果を全く享受できていないことを、ともに本件規定に絡めて問題としたことが、①と②が混同される一因となったのではないか、ということです。本件規定が同性婚を認めないことを合憲とするのであれば、違憲判断は本件規定とは別にした方が誤解を避けられたように思います。
これに対し、東京地裁は、大阪地裁同様、②を立法不作為の問題と捉えた上で、違憲状態としました。東京地裁判決は札幌地裁と異なり本件規定を(一部)違憲としなかったために原告の実質敗訴あるいは札幌地裁判決からの後退との理解も見られます。しかし、同性婚を認めないことを違憲としないまでも、同性カップルが婚姻の法的効果を全く享受できていない状況を違憲(状態)とするという点では、札幌・名古屋地裁判決と東京地裁判決は共通しています。
やや専門的な話になりますが、札幌地裁や名古屋地裁のように、本件規定を婚姻類似制度も設けられておらず婚姻の法的効果を全く享受できない限度で(一部)違憲とするのであれば、本件規定は同性間の婚姻だけでなく婚姻類似制度まで排除しているとの解釈が前提となると思います。しかし、本件規定は同性間の婚姻類似制度までは排除していないでしょう。換言すると、同性間の婚姻類似制度が認められていないのは、本件規定が排除しているからではなく、単にそういう制度が法律で定められていないからでしょう。したがって、違憲判断の方法としては、本件規定を一部違憲とするのではなく、立法不作為を違憲とするのが素直だと思います(※7)。
ただし、本件規定を一部違憲とするのと制度の不存在を違憲(状態)とするのとでは、前者の方が国会に対する明確なメッセージになるかもしれません。前者だと民法と戸籍法の改正を求めるメッセージになりますが、後者だとそうはならないからです。もっとも、東京地裁は、婚姻類似制度を憲法24条2項の「家族」に関する事項として制定すべきと述べているわけですが、そうすると婚姻類似制度はこの家族に関する事項として民法で定められるだろうし、関係の公証は戸籍でするでしょうから、普通に考えれば、制度化は民法と戸籍法の改正によりなされることになるでしょう。そうすると、違憲判断の方法の違いはさほど大きくないと言えそうです(※8)。
「違憲」と「違憲状態」の何が違うのかは、よく分からないところがあります。①同性カップルが婚姻の法的効果を一切享受できていないという客観的な状況は憲法の趣旨に反するが、②その状況を解消するために国会が法律の制定や改正をする義務があるのにこれを怠ったとまではいえない(従って、立法不作為が違憲でもなく国賠法上も違法でない)、との判断を前提として、①を「違憲状態」と表現した、というのが1つの理解の仕方と思います。憲法判断の対象として、制度の不存在という客観的状況と、国会がそれを解消するための立法をしないこと(立法不作為)を区別しているのではないか(あるいは、厳密には憲法判断の対象となるのは立法行為のみ)、ということです(※9、10)
これに対し、本件諸規定が、同性婚や同性婚類似制度を排除していると考えれば、本件諸規定が(一部)違憲であると表現することは可能でしょう。
※7 裁判所が本件規定を一部違憲としたのは、原告の主張に対応したためでしょうが、この原告の主張に対しては、元最高裁判事が「「民法及び戸籍法の婚姻に関する諸関係規定が違憲である。」という主張は、民法等の特定の規定を違憲審査の対象にしているような誤解を招きかねない表現となっており、簡略にすぎる。・・・・・・現行の法律では、民法及び戸籍法をはじめ他の法律においても、同性婚を認める手続きを全く置いていないが、それは、同性婚の制度化が憲法の要請であるのに、そのための立法措置を怠っているものである。これは、憲法の趣旨に反する国会の立法不作為であり、違憲である、という主張とみるべきであろう。」と指摘しています(千葉勝美『同性婚と司法』149~150頁)。
※8 民法には「家族」を正面から位置づける条項がありませんが、「第四編 親族」(「総則」「婚姻」「親子」「親権」「後見」「保佐及び補助」「扶養」の7章から構成されます)と「第五編 相続」が「家族」を規定していると考えられます(法律学では、親族編の規定、あるいはそれと相続編の規定とを併せて「家族法」と呼んでいます)。同性カップルを「家族」と認めるのであれば親族編で規定するのが素直でしょう(位置は、婚姻の章の後、後見の章の前のいずれかとなるでしょう)。また、①家族であることの公証、②異性と婚姻している者が同性と婚姻類似制度を利用する(ないしその逆)を防ぐ必要があることや③パートナーに相続資格が認められるであろうことなどを考えると、パートナー関係は戸籍に記載することが合理的でしょう(婚姻同様、カップルの新戸籍が編製される?)。にもかかわらず、民法や戸籍法の改正ではなく敢えて特別法を設けるとすれば、なぜ民法や戸籍法の改正によらないのか(同性愛者に対する差別ではないか)、が問題となるでしょう。
※9 立法のためには一定の期間が必要なので、違憲状態となってから相当な期間が経過しても立法がされない場合に、立法義務を怠ったとして立法不作為が違憲となる、ということでしょう。これに対しては、※7の文献が、「違憲状態であるが、結論は合憲(違憲でない)とわざわざ判示することは、国家はしかるべき立法措置を速やかに執らなくてもよいと捉えられるおそれがある。」「「立法不作為」が審査対象である上、直ちに違憲としても不都合は生じないはずである。」と指摘しています(同189頁)。
※10 同性カップルが婚姻の法的効果を一切享受できていないことが訴訟の対象外と解される場合に「違憲状態」との表現が用いられている(東京地裁と後述の福岡地裁)との指摘もあります。木村草太東京都立大学教授。
なお、パートナーシップ制度も、内容次第では婚姻と何が違うのか疑問が生じる(実質的には婚姻と変わらないのではないか)、ということにもなります。それでも、伝統的婚姻観・家族観からすると、(家族と呼称することは認められたとしても)それを「婚姻」と呼称することは認められない、ということになるのでしょう。
【憲法のどの条項に反するか】
札幌地裁は本件規定の一部を14条1項違反、東京地裁は制度の不存在を24条2項違反(状態)、名古屋地裁は本件規定の一部を14条1項と24条2項違反としています。
憲法24条2項は「婚姻」と「家族」について定めることを求めていますが、東京地裁と名古屋地裁は、制度の不存在を「婚姻」ではなく「家族」に関する事項の問題としています。これは、原告にとっては不満が残るのではないでしょうか。原告は、まずは「カップル」「パートナー」としての承認を求めていると思われるからです(ただし、原告団には、「家族」として認めてもらいたい、と述べる方もいるようであり、原告団内でも微妙な違いがあるのかもしれません)。
【福岡地裁判決はどうなるか】
これまでの4つの判決の傾向からすると、間もなく出される福岡地裁の判決は、同性婚を認めないこと自体は合憲としつつ、①同性カップルの婚姻等の制度が設けられていないことを違憲とするかしないか(大阪とそれ以外)、違憲とする場合に制度が存在しないという客観的な状況(立法不作為)の問題とするのか(東京)、②本件規定を違憲(一部違憲)とするのか(札幌・名古屋)、というのが分かれ目だろうと思います(②はテクニカルな問題に過ぎませんが)。
いずれにせよ、これまでの地裁判決とは全く異なる判断(例えば、同性婚は憲法により禁止されているとか、同性カップルも異性と婚姻できるから14条1項違反の問題は生じないとか、同性カップルが公的に承認される利益は伝統的な婚姻観・家族観に反しており尊重すべきでないとか、逆に同性婚を認めないことは違憲であるとか)にはならないと予想されます。
【追記】
2023年6月8日、福岡地裁の判決が出されました。ネットニュースでは速報が出され、注目度の高さが窺えました。
予想したとおり、上記の地裁レベルのコンセンサスから離れる判断ではありませんでした。
13条、14条1項、24条1項違反は認めませんでした(ただし、明示的には、同性婚を認めないことがこれらに違反しないとだけ判断し、婚姻による法的効果を享受できないことがこれらに違反するかどうかは判断していないようです)。
24条2項適合性について、次のように判示しました。
同性カップルに婚姻制度の利用によって得られる利益を一切認めず、自らの選んだ相手と法的に家族になる手段を与えていない本件諸規定はもはや個人の尊厳に立脚すべきものとする憲法24条2項に違反する状態にあるといわざるを得ない。
同性間の婚姻を認めていない本件諸規定が立法府たる国会の裁量権の範囲を逸脱したものとして憲法24条2項に反するとまでは認めることができない。
同性カップルに婚姻制度によって得られる利益を一切認めていない本件諸規定は、憲法24条2項に反する状態にあり、立法者としてはこの状態を解消する措置に着手すべきとはいえるものの、この方法は多種多様な選択肢があるから、本件諸規定を改廃しないことは国賠法上違法とは評価できない。
「同性カップルに婚姻制度の利用によって得られる利益を一切認めず、自らの選んだ相手と法的に家族になる手段を与えていない本件諸規定」と「同性間の婚姻を認めていない本件諸規定」とを明確に区別し、前者を違憲状態、後者を合憲としています。札幌地裁判決が誤解されていることを意識したのかもしれません。
婚姻による利益を一切認めていない点については、「違憲状態」としていますが、立法不作為ではなく、本件諸規定をその限度で(一部)違憲としたように読めます。違憲判断の方法という面では、東京地裁よりは札幌地裁・名古屋地裁に近いと言えそうですが、札幌地裁や名古屋地裁よりはわかりやすい(誤解を招きにくい)と思います(それでも「同性婚規定なし 違憲状態」といったミスリーディングな報道は見られますが)。
【追記2】
2024年3月14日、東京地裁(第二次訴訟)と札幌高裁の判決が言い渡されました。【同性婚訴訟2】をご覧下さい。